遠山氏とは
戦国時代の遠山一族は、美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、遠山七家(遠山七頭)と称された。その内の岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏を三遠山(遠山三頭)と呼んだ。
元亀3年(1572)、武田氏の西上作戦が開始されると、織田方となっていた遠山氏は攻撃を受け、岩村城は降伏。この時に明知遠山氏の一族が相模に行き、北条氏に仕え武蔵遠山氏となった説がある。
天正2年(1574)に、武田氏の侵攻で明知城は陥落した。しかし天正3年(1575)、長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で、遠山利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻った。
そして天正10年(1582)、本能寺の変の後、羽柴秀吉についた森氏が苗木城主遠山友忠を追い東美濃を制圧した。これをみて利景は、妻の実家である足助鈴木氏を頼り、一行と共に三河足助城に逃れたのだ。小牧・長久手の戦いの中で、一時的に利景は明知城を奪回したが、和睦により森氏に返還されてしまったため、利景は家康に従った。
その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦での功で、利景は旧領回復を成し遂げ、6531石の旗本となり、その子孫は領主として幕末まで続いた。