STORY 恵南地方にまつわる50の物語

明智町 下田良子弘法 秋のお彼岸法要

地蔵堂に描かれた謎の格子絵天井

境内の諸仏とお彼岸法要

「丸森」という名の整地の神々に守られた静かな農村、下田良子(しもたらご)。
明治、大正、昭和、そして平成へと激動の時代を乗り越え、日本は物質的に豊かになった。
しかし、今や私たちの祖先が営々と伝えてきた貴重な文化遺産が忘れ去られようとしている。
郷土の先人が遺してくれた素晴らしい「ふるさとの遺産」を、情報社会の今だからこそ伝えていきたい。

記憶に残る地名

明智町には、珍しい地名がある。田良子(たらご)地区という地名で、北部(上の方)を上田良子(かみたらご)、南部(下の方)を下田良子(しもたらご)という。思わず、女性の名前で読んでしまい、珍地名にバス停でパチリとカメラを撮る人が多い。地名は、故郷の歴史を秘めた貴重な文化遺産だ。
田良子地区は、大正村のある中心部とは違い、田畑と森林に囲まれた長閑な農村地域で、山の上の神社や薬師堂、石祀などが、今もひっそりと佇んでいる。

そんな下田良子の地蔵堂では、毎年秋に弘法さんのお彼岸法要が行われている。朱色の屋根のお堂は趣があり、歴史の深さを感じさせる。中に入ると、本尊である地蔵菩薩が祀られている。慈悲深いお顔、美しい色彩の着物に思わず目を奪われる。勧請年代や由来はわかっていないが、享保5年に村人により地蔵尊を装飾、寛政12年に再建されたといわれている。
そして天井を見上げると、絵が描かれているのに気づく。けやきの木板一枚一枚に、人物や鳥類、植物、風景が丹念に描かれ、64枚の木板が格子状に組まれている。いつの時代に描かれたのか不明で、謎を秘めた絵天井は市の文化財に指定されている。

かつては、一人ずつ松明を灯してお堂から横通地区境まで持っていく「虫送り」という行事や、お堂に集まり、心経を唱えながら大きな数珠を手送りに順に廻して拝む「雨乞い」をしていたそうだ。時代と共に変化していき、現在は地域の女性が中心となり、お堂で地蔵菩薩に地域や家庭の平和を祈りながら、持ち寄ったお弁当などを囲む行事になった。形は変わっても、地域の人達の大切な交流のひと時に変わりはない。

聖なる杜・丸森

地蔵堂境内には、様々な石仏が祀られている。そして、その背後には「丸森」と呼ばれる聖地が広がっている。この杜(もり)は、白山杜・秋葉杜・天照皇大神宮碑・天満杜・津島杜・行者さんなどの神々が宿る神聖な場所だ。
聖地へ入る前に心をひきしめる。鳥居の手前に、風格が漂う石灯篭が目に入った。建立は文政11年8月で、念仏講中の寄進で建立された。「秋葉山 大神宮象頭山 村内安全」と刻んである。高さが約3,4mあり、町内でも最大級に属する造りで、「昔は、下田良子は勢いがよかったげな」といわれ、それを裏付ける立派な灯篭だ。
鳥居をくぐり、山の斜面の急な階段を上がっていく。すると、「高野槙(コウヤマキ)」が群生している。およそ4,1mから1,2m級のものが、50~60本も生えている。天然の高野槙の林は珍しく大変貴重だ。
階段を上がると、「天照皇大神宮」と刻まれた石碑がある。高さ3,2mもあるから驚きだ。その存在感に圧倒される。そして、丸森の頂に鎮座する「白山神社縁起」の社祠にたどり着いた。元禄6年、又右衛門の願いにより白山大権現を迎え、息災延命の祈願所としたことが始まりとされている。時代を経て何時の頃からか、下田良子地区の祭祀するところとなり現在に至っているそうだ。

風情ある古民家

下田良子には情趣ある古民家が残されている。佐々木家の子孫の方々も、代々跡を引継いで、リフォームはされているが現在もその家屋で生活を営んでみえる。
大正10年頃、養蚕業だった佐々木誠一さんが、自山の木を材料に建てた家屋だ。太い良材をふんだんに使用した、見た目にもがっしりした骨組みである。大正期の養蚕を目的にした代表的な建築物で、当時、蚕は座敷から土間まで利用し飼育されていた。二階は上蔟(じょうぞく)に使われ、前の畑は桑畑だった。上蔟とは、成熟した蚕に繭を作らせるために、蔟(まぶし)にいれることをいう。
左手の小山には、長さ6,0m、幅3,8mの巨石が鎮座しており、当家の屋号は「石飛び」と呼ばれている。

下田良子地区には、目の前に、身の回りに、こんなにもたくさんの文化遺産があふれている。そしてそれを受け継ぎ、新しい世代へ伝えようとしている人達がいる。そのどちらも大切な「ふるさとの遺産」である。

INFORMATION

名称
下田良子(しもたらご)地蔵堂の絵天井
場所
岐阜県恵那市 明智町大田下田良子
お問合せ先
0573-54-2111(明智振興事務所内 まいまいくらぶ)

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