STORY 恵南地方にまつわる50の物語

明智町 明智光秀ゆかりの地

謎多き戦国武将 光秀のルーツをめぐる

史跡と歴史の探訪と「光秀まつり」

明智光秀とはどんな人物だったのか?
山あいの町、明智町に残る史跡をたどりながらますます光秀を知りたくなる。
今、光秀が注目されているのも偶然ではないかもしれない。

光秀の史跡が残る町

2020年放送のNHK大河ドラマが、戦国武将・明智光秀を主人公とした「麒麟がくる」に決まった。それを受けて県内のゆかりの地では早くも盛り上がりを見せている。
光秀の前半生は謎に包まれており生誕地もはっきりしていないが、出生地であるとの伝承の残る場所が岐阜各地にある。
明智町もその一つで、県指定史跡「明知城跡」があり地元では毎年「光秀まつり」が開催されるほどだ。同町の千畳敷公園内には「明智光秀産湯の井戸」と書かれた井戸があり、「生誕地はここ明智町に違いない」という強い思いが地元では広がっている。
他にも光秀学問所(現天神神社)や、母・お牧の方の墓などがある。北麗の龍護寺には光秀の供養塔が建てられ、光秀の直垂(ひたたれ)が伝わる。

光秀ゆかりの地の史跡めぐりは戦国の時代への好奇心を刺激する。
日本大正村では、史跡・歴史探訪コースが設けられており、気軽にめぐることができるのがうれしい。

光秀の人物像に迫る

明智光秀といえば誰もが「本能寺の変」を思い浮かべるだろう。主君である織田信長を討った裏切り者として伝えられているが、その真相はいまだ謎に包まれている。
光秀の前半生や先祖については実に不明な点が多い。
生年もはっきりしておらず、享禄元年(1528年)とも、大永6年(1526年)とも、永正13年(1516年)ともいわれている。彼が生まれた明智家のルーツも明確になっておらずこれが生誕地がわからない原因になっているのだろう。

青年期からの光秀の動向は伝えられており、一説には「美濃のマムシ」と呼ばれていた斎藤道三に仕えていた。しかし道三が息子との争いに敗れ、弘治2年(1556年)光秀は一家離散になり浪人となってしまったそうだ。
そして・・・一介の浪人から織田信長に仕え卓越した才覚で異例の出世を遂げる。織田信長の天下統一まであと一歩という時に突如謀反。本能寺の変で信長を討ったが、その後山崎の戦いで秀吉に敗れ逃げるところを土民に殺された。本能寺の変からわずか11日後のこととの説もある。

天正10年(1582年)、明智光秀が主君の織田信長を討った本能寺の変は日本史最大のミステリーとされ、なぜ光秀が謀反したのかその動機については様々な説が唱えられてきた。
そんな謎の多い人物だからこそ人々は光秀に惹かれるのかもしれない。

戦国絵巻と大正ロマンのコラボ

毎年5月に大正村おんさい祭りの一環として開催される「光秀まつり」では、名将光秀公をしのび武者行列が繰り出される。明智かえでホールから大正村広場までの約600メートルを、戦国武将の衣装に身を包んだ現代版「光秀」の武者行列が、光秀ゆかりの史跡が残る町を練り歩く。光秀公を先頭に、地元の小学生が扮する武将や姫、鉄砲隊など総勢100名を超える行列は圧巻だ!沿道に詰めかけた観衆からは盛んにカメラが向けられた。

日本大正村の3代目村長を務める女優の竹下景子さんも駆けつけ、行列の山車に乗車し沿道の歓声に手を振ったり声をかけたり訪れた多くの観衆を楽しませた。
5月のさわやかな青空に大正ロマン漂う町並みが、いきなり!戦国絵巻に包まれ幻を見ているようだ。大正ロマンの町並みと戦国武将のコラボレーションが不思議な世界観を生み出しており、中々見られない光景だけに貴重な体験だ。
大正村広場での武者たちの勝鬨の後には、居合演武、火縄銃演武、光秀グッズ販売もあり
子供から大人まで楽しめる。

明智町では光秀ゆかりの地として、町民、行政、有志の人達一体となり史跡を残し伝えるため日々尽力している。
光秀まつりと共に、恵南地域にとって貴重な宝だといえる。

INFORMATION

名称
光秀まつり
場所
岐阜県恵那市 明智町
お問合せ先
0573-54-2111(光秀まつり実行委員会)

RECOMMENDS