明智光秀で有名な「明智氏」発祥の地大正時代の
面影を残すレトロモダンな情景

この地域は、古くは鎌倉時代に明知遠山氏の始祖が明知城を築いて地域の要衝となり、
戦国時代には織田氏と武田氏の抗争が数多く発生した歴史の表舞台にも多く登場する場所です。
その後、江戸時代に明知城は廃城となるも、町は中馬街道(塩の道)の宿場町として発展。
明治から大正期にかけて養蚕による製糸産業が、その後は窯業も盛んになり、西洋文化の影響を多大に受けるようになりました。当時の建築物は現在も多数残っており、町ぐるみの大正博物館「日本大正村」ではレトロモダンな情景を楽しめます。

明智町

大正ロマンが、いまも息づく。

古い町並みが続く明智町中心部。町並みのところどころに西洋風の建物も点在しているほか、和の建物も昭和期や江戸期のものとちょっと違います。実は、これらの多くは今から100年前後昔の大正時代に建築されたもの。当時の郵便局や銀行蔵が現存している他、多くの建物が現在でも住民の生活空間となっています。
大正時代は、明治、昭和に挟まれたわずか15年の時代。しかし、この時代は、教育、文化水準の向上がめざましく、近代的な西洋文化も庶民に普及し、モダンボーイ・モダンガールのファッション、近代的建築の普及もあり、いきいきとした大正ロマンの文化が花開きました。明智町は、そんな大正時代の町並みが現存する国内でも珍しい町と言えましょう。

明智光秀ゆかりの地・光秀公の生誕地

岐阜県恵那市明智町。明智光秀の生誕地として、古くから伝承のある町です。 光秀の家系である明智氏の発祥地が当地であるということは判っており、それゆえに、11代目の当主となった光秀についても、ゆかりの場所や伝承の話が遺されています。 光秀は現在千畳敷公園として整備されている上岐明知城で産まれたという言い伝えがあり、その際産湯に使われた井戸(光秀産湯の井戸)が現存しています。 また、幼少期に京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という僧侶を招き学問に励んだとされる学問所や光秀公の供養塔、光秀公のご母堂・お牧の方の墓所もあり、光秀公ゆかりの地が今でも多く残っています。

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  • 一般社団法人恵那市観光協会明智支部
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  • 恵那市明智町843-1 興事務所内
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  • 電話 0573-54-2111