STORY 恵南地方にまつわる50の物語

明智町 八王子神社大祭と明智太鼓

激熱!舞い踊り打つ太鼓の響き

八王子神社大祭と奉納太鼓

秋空に響き渡る太鼓の音、祭囃子の笛の音色が絶妙なハーモニーを奏でる。
若衆の威勢のいい掛け声とダイナミックな動きに、観衆も思わず熱くなる。
今も昔も変わらない、胸の奥に響いてくる八王子神社大祭の明智太鼓をあなたも実際に見てみよう!

八王子神社の由来

八王子神社は、戦国時代の山城、明知城の北西の麗に鎮座している。平安時代の天暦3年(949年)に創建された、千年の歴史を持つ郷土の産士神だ。
現在の社殿は、延宝4年(1676年)に再建され、平成24年に修繕修理されており、県の文化財に指定されている。
周辺地域の、中心的な神社として信仰を広げ、最盛期には2千石の社領を擁していたそうだ。特に、領主「遠山家」の氏神として祭っていた。武田勝頼の侵攻で明知城が陥落した時、八王子神社も兵火により焼失したが、その後江戸時代に遠山利景が再興させている。

境内の中央に延びる参道には、立派な鳥居があり、その横に八王子神社の碑が建てられている。社殿の由来によれば、「八王子」とは天照大神の8人の王子(王子5人、王女3人)のことだそうだ。恵那山周辺地域では、この山に天照大神が産まれた時の胞衣(えな)を納めたという伝説が残っており、厚い信仰の対象となっている。
参道の階段を上がると、唐門が出迎えてくれる。一説によると、明知城に使われていた大手門を移設したものだとか。

明智町は、明智光秀のゆかりの地としても有名で、多くの史跡が残されている。境内にある「柿本人麻呂神社」は、明智光秀が建立したといわれ、また、横の楓は光秀が手植えしたものだと伝えられている。清々しい緑の葉を見ながら、なぜ光秀がここに楓を植えたのか?ロマンを感じるひと時だ。

八王子神社大祭とは

八王子神社では、毎年10月の初旬の土曜日と日曜日の2日間、金弊社八王子神社例大祭が執り行われる。1日目の宵宮祭(よいみやさい)・厄年祈祷祭(きとうさい)に始まり、2日目には神幸祭(しんこうさい)・還幸祭(かんこうさい)が行われ、余興の奉納後に大祭が社殿で行われる。
秋祭りとして地域の子供から大人まで、町内3分団約300人が集結して、境内は人で埋め尽くされる程のにぎわいだ。
「宮本組」「若一組」「桔梗連(ききょうれん)」に分かれ、神輿と太鼓を備え付けた色鮮やかな「やたい」を作成し、町内を練り歩き、大祭の始まる前には、余興奉納として、八王子神社に集結する。
当日男性は法被姿、女性は「かるさん」姿で、手踊りや太鼓を打ち鳴らしながらめぐる。「かるさん」とは山袴(やまばかま)の一種で、中部地方の農村で着用されている野良着である。かるさんという言葉は、ポルトガル語のカルソン(半ズボン)からきたもので、安土桃山時代に来日した南蛮人の下衣に似ていることから名付けられたといわれている。小学生の女児のかるさん姿は、何とも可愛らしく微笑ましい。

舞い踊り打つ明智太鼓

この祭りの特徴の一つに、奉納太鼓「明智太鼓」がある。「スリコギバチ」といわれる独特のバチを持ち、豪快に舞い踊りながら太鼓を打つ。横置きの木製太鼓の軽快なリズム、金属製の音を奏でる縦置きの金銅太鼓、そして柔らかい旋律の竹笛の音色。それぞれの音が絶妙にからみ合い、素晴らしいハーモニーを奏でている。
太鼓の曲も様々な種類があり、寄せ太鼓や回り打ちの基本形の「猿崩し」や「新橋」。明け方に叩く「暁鳥」、神興巡行時の「宮下がり」「宮入り」の太鼓など微妙に違いがある。
太鼓の響きに包まれた八王子神社の境内は、叩き手と参加者の熱気であふれている。
明智太鼓は、大正時代末期からの伝統がある。当時明智八王子神社では、岡崎神楽が奉納されていたが、それに勝る太鼓をと、人々は探しまわったそうだ。そして大正の終わりに、現在の愛知県豊田市(旧東加茂郡旭町)に存続し八幡神社で奉納されていた太鼓を、明智に移入することが決まった。大正末期には、八王子神社境内に初めて太鼓の音が響き渡り、その後串原太鼓の影響を受けながら、明智太鼓特有の姿を編み出し、大祭で奉納されるようになった。
昭和49年に発足した明智太鼓保存会が、曲を受け継ぎ後継者の育成、郷土芸能の伝承活動に尽力している。
市の文化財指定(無形文化財)を受けている明智太鼓、そして八王子神社大祭は、恵南地域の価値ある祭りである。

INFORMATION

名称
八王子神社社殿 等
場所
岐阜県恵那市 明智町 八王子神社周辺
お問合せ先
0573-54-2111(明智振興事務所内 まいまいくらぶ)

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