STORY 恵南地方にまつわる50の物語

明智町 明知城跡(白鷹城跡)

かつてその山は城だった… 静かに息づく白鷹城

お城の原型といわれる歴史深い山城

険しい山を開拓し、創意工夫を凝らして造られた明知城(白鷹城)は、先人たちの強い意志が感じられる。
山風に吹かれて、本丸跡から眺める風景に、ロマンを感じるのはなぜだろうか。

山に築かれた城

明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から、南西8㎞に位置する遠山十八城のひとつである。別名「白鷹城」とも呼ばれ、標高530mの山に築かれた、天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っている。日本でもその状態は数少ないとされ、県の指定文化財となっている。

明知城は明智駅の南東に聳える比高80m程の山に築かれており、現在は遊歩道が整備されている。主郭は山頂にあり、南東下に二の丸、西下に三の丸、南に出丸など多数の曲輪群を有する。この城の最大の特徴はこれらの曲輪群の外側を巡るように横堀と畝状竪堀群が設けられていることで、横堀は通路を兼ねたもので、竪堀は一般的な畝状竪堀群の竪堀とは異なり畝が背丈を超える程の巨大な畝状竪堀群である。

城山の北西にある「龍護寺」の登山道入り口から遊歩道を歩いて行くと、説明が書いてある看板があり堀底道や土塁、曲輪へと続く。マイナスイオンあふれる森林の中を歩きながら、当時の面影に想いを馳せる。三の丸、石垣跡へと続き、山頂の主郭にたどり着く。そこには、「明知城縄張り図」の看板があり全体像がわかる様になっている。木々の間から望む景色は、標高の高さを感じさせ見晴らしがよい。二の丸、虎口へと続き、出丸と繋がる土橋に。そして、石に大きな穴が開いた柱石が見えてくる。陣屋の礎石として残されたものだ。畝状堅堀群は、獣道の様に細く登り下りが激しい。

明知城跡をひと回りすれば、じんわりと汗をかき、良い運動にもなる。

明知城(白鷹城)の歴史

明知城は、宝治元年(1247年)遠山景重によって築かれたと伝えられている。
元亀3年(1572年)武田信玄の武将、信濃国高遠城主秋山信友は岩村城を攻略した後、上村合戦で明知城主遠山景行、苗木城主遠山勘太郎、そして飯狭間城、串原城を攻略した。

天正3年(1575年)織田方となっていた明知城に、武田勝頼の軍勢が押し寄せた時、飯狭間右衛門(高遠友信)が謀反を起こし籠城していた坂井越中守一族を殺害して、城を武田方へ明け渡した。また一説に、高遠友信は飯羽間城を武田方に攻め落とされ、生け捕られたといわれている。

その後、天正11年(1583年)明知城主遠山利景は、金山城主森長可の圧迫で、明知城から去って徳川家康に仕えた。天正12年(1584年)遠山氏は、小牧・長久手合戦で森長可の家臣石黒藤蔵・関左門の守る明知城を攻略したが、その後豊臣秀吉の命令により、明知城は森長可に返されたのだった。

慶長6年(1600年)関ヶ原合戦では、岩村城主田丸直政の家臣山川左之助・原土佐の守る明知城を攻略、その功によって恵那郡と土岐郡内に六千五百三十石を領し、元和元年(1615年)一国一城令により、旗本二代領主遠山方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となった。

城の原型

そんな戦の歴史を今も偲ばせる山城だが、中でも「猿戻し」と呼ばれる絶壁が数ヶ所あり、確かに猿でも登れないだろう・・・と思わせるような山の壁だ。明知城は、現代人がイメージする石垣のあるお城とはまるで違う。山を削って堀を作り、土を盛って土塁が作られているお城の原型のようなものだ。

険しい山の中にひっそりと佇む明知城跡は、貴重な恵南地域の宝である。

INFORMATION

名称
明知城跡(白鷹城跡)
場所
岐阜県恵那市 明智町

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