STORY 恵南地方にまつわる50の物語

明智町 旗本遠山氏のお墓

苔むした墓石に歴史のドラマが刻まれている

旗本領主遠山家の墓所

戦国時代、城郭攻防戦が展開された美濃(みのの)国(くに)恵那郡(えなぐん)。
大自然の中で繰り広げられる、栄光と没落の物語。
現代に生きる私たちには、想像もできないドラマがあり、代々受け継がれてきたのだ。
しかし、城を守ることは、家を守ることと同じかもしれない。
「守るために・・・」という思いは、いつの時代でも変わらないのではないだろうか。

※現在明智の漢字は「智」になっていますが、歴史上正しくは明知で、漢字は「知」であるため、本文で使用しています。

遠山氏とは

明知遠山氏は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派である。宝治元年(1247)、明知遠山氏の始祖・遠山景重(源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)が明知城を築き、代々守護してきた。

戦国時代の遠山一族は、美濃国恵那郡およびその周辺に勢力を持ち、遠山七家(遠山七頭)と称された。その内の岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏を三遠山(遠山三頭)と呼んだ。
元亀3年(1572)、武田氏の西上作戦が開始されると、織田方となっていた遠山氏は攻撃を受け、岩村城は降伏。この時に明知遠山氏の一族が相模に行き、北条氏に仕え武蔵遠山氏となった説がある。
天正2年(1574)に、武田氏の侵攻で明知城は陥落した。しかし天正3年(1575)、長篠の戦いで武田氏が衰退し織田方の攻勢で、遠山利景は小里城を落とし、明知城も明知遠山氏の下に戻った。
そして天正10年(1582)、本能寺の変の後、羽柴秀吉についた森氏が苗木城主遠山友忠を追い東美濃を制圧した。これをみて利景は、妻の実家である足助鈴木氏を頼り、一行と共に三河足助城に逃れたのだ。小牧・長久手の戦いの中で、一時的に利景は明知城を奪回したが、和睦により森氏に返還されてしまったため、利景は家康に従った。

その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦での功で、利景は旧領回復を成し遂げ、6531石の旗本となり、その子孫は領主として幕末まで続いた。

龍護寺の墓所

長い歴史の中で、明知城を守ってきた遠山一族。その明知遠山家の菩提寺・龍護寺(りゅうごじ)には遠山氏累代の墓所がある。
大永元年(1521)、ここに塔仙坊の草庵があり、柏庭和人が住んでいた。この方は京都の妙心寺にいたが、三河旭村の三玄寺を経て当地に落ち着いたといわれている。
慶長元年(1596)明知城主・遠山利景は、城の北に浄地を選んで禅刹一宇を建立し、龍護寺とした。

緑深い静寂の中、龍護寺の西側に、明知の旗本領主遠山家代々の墓が十墓並んでいる。
古くから東濃の豪族として、明知を領してきたが、武田軍に攻められ戦死した明知城主・遠山景行の墓がある。
その次男、遠山利景が徳川家康に仕えて、関ヶ原の戦いで功をあげ、旗本遠山家初代領主となった。
その後、方景が第二代領主。長景が第三代領主。伊次が第四代領主と続いていく。伊清は第五代領主。景眤が第六代領主となり、景達が第七代領主。伊氏が第八代領主。景祥が第九代領主、そして最後の墓が、景珍で第十代領主となる。

ずらりと並ぶ遠山家のお墓を前に、戦で散った命、様々な人生のドラマがあったかと思うと感慨深い。そんな歴史絵巻を思い浮かべながら、「お疲れ様でした。」と手を合わせる。
なお第十一代領主の遠山景高は、安芸守となり浦賀奉行をつとめ、ペリーとの日米和親条約の締結などに活躍した。慶応2年(1866)に没し、東京にお墓がある。

遠山の金さん

また正面の祠は、名奉行遠山金四郎景元の業績を称え、合祀されていると伝えられている。
安政2年(1855)2月29日に没した。享年61歳。本郷丸山本妙寺に葬られた。
テレビ時代劇の「遠山の金さん」の主人公のモデルとして知られる遠山景元は、江戸時代天保年間(1830~)に江戸北町奉行所、大目付、後に南町奉行を務めた人物だ。通称は実父と同じ金四郎。
明知遠山氏から分家した遠山家であり、明知遠山家の末裔にあたる。遠山の金さんを連想しながら、偲んでいただきたい。

領地を守り続けた旗本遠山氏の志は、これからも受け継がれていくだろう。その証となる墓所を大切に遺していきたい。

INFORMATION

名称
旗本遠山氏累代の墓(龍護寺)、遠山景行の墓(安住寺)
場所
岐阜県恵那市 明智町東山3
お問合せ先
0573-54-2111(明智振興事務所内 まいまいくらぶ)

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