STORY 恵南地方にまつわる50の物語

山岡町 白山比咩神社大祭

神にささげる郷土芸能・獅子舞の魅力

白山比咩神社の祭典と獅子舞

宮司さんだけが、拝観を許された白山比咩神社の御神体。
その神様にささげる獅子舞は、観る者に活力を与えてくれる。
長い歳月をかけ、様々な難関を乗り越え受け継がれてきた獅子舞は、人の心の奥をつかむ魅力にあふれている。

白山神社の由来

山岡町下手向(しもとうげ)地区では、毎年10月の第2日曜日と月曜日に、白山比咩(しらやまひめ)神社大祭が行われる。
白山比咩神社は、山岡町下手向の雲路山にある神社で、祭神は菊理姫神(くくりのかみ)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・豊受姫大神(とようけのおおみかみ)の五神である。
白山比咩神社は、もとは白山神社と呼ばれ、いつ頃創建されたのかはっきりとはわからない。しかし、かなり古くからある神社だといわれている。天正年間に、武田勝頼が岩村城を攻めるために東濃地方へ侵攻。この時に白山神社が兵火によって焼失した。その後天正3年(1575)に仮殿を造営したと伝えられている。また、14カ村のかなり広い範囲の、土地や村々を鎮護する役目もあったそうだ。
その後数々の変遷があり、明治44年5月に下手向荒木に祀られていた神明神社を白山神社に奉遷して合祀し、7月に白山神社を「白山比咩神社」と改称した。

なぜ獅子舞は復活したのか?

大祭の初日の夜には地元の獅子舞会館で、県の無形民俗文化財に指定されている獅子舞が奉納された。白山比咩神社獅子舞保存会が継承し、近隣での上演活動を行うと共に、その指導にもあたっている。平成7年9月には、日米芸能交流のため、6道県の代表としてニューヨークのカーネギーホールで上演を果たした。
最初に獅子舞が奉納されたのは、江戸時代の享保2年(1717)のことだと伝えられている。大昔は豪壮な男獅子舞が奉納されていたようである。その後、獅子舞は大きく変化して、嫁獅子による獅子舞が享保の頃から盛んになり、やがて下手向の白山神社にも伝わり、嫁獅子による奉納獅子舞が隆盛を極めた。
ところが、文化年間の終わり頃になると、あれ程盛んだった奉納獅子舞が、なぜか衰退しはじめ、ついに中断してしまったのである。すると、文政元年に近畿、東海地域に大暴風雨があり、特に中部山岳地帯は大洪水に見舞われ、田畑は流され大変な被害が出てしまった。この大異変に、「獅子舞を中断した祟りではないか!」と村人たちは恐れ、中断していた獅子舞の復興をはかった。そのため、文政以降は以前にも増して獅子舞が益々盛んになっていった。
 
獅子舞は、午後6時半を過ぎた頃に始まり、地域住民や帰省してきた人達でにぎやかだ。演じ手は、女性用の華やかな着物を身にまとって獅子頭をかぶり、「悪魔祓い」や「忠臣蔵七段目」などを熱演し会場を湧かせた。唄と笛、太鼓に合わせて舞や歌舞伎のさわりを演じ、五穀豊穣や無病息災、家庭円満を祈った。
地元の青年団による「おかめ」や「さいとりさし」など、伝承されてきた芸能を見事に演じ、地元小学生の笛やこども園児によるダンスも披露され、観客から大きな拍手、おひねりが飛び交った。
下手向婦人部による五平餅やおでん、クレープの会など手づくりのお店も並び、夜の獅子舞会館は大いに盛り上がった。

受け継がれる古典芸能

2日間を通して行われる大祭の準備は、区民の手によって行われ、1日目の朝からしめ縄や飾りの用意で、役員さんは大忙しだ。午後2時に、本殿から御神体を御神輿にのせて、獅子舞会館の外宮まで担ぐ。宮司さんだけが御神体を拝観することができ、それ以外誰も拝観したことがない。それほど神聖な存在なのだろう。夜は獅子舞会館で余興が行われ、そして一夜明け2日目。午前11時頃、地区の人々が衣装を身にまとい、御祭神をのせた御神輿は獅子舞会館を出発して、下手向地内を練り歩く。
地元の子供たちも、子供神輿を造って笛を吹き参加して、その可愛らしい様子に思わず笑みがこぼれる。地内を練り歩く間、雨が降ると中止になってしまうため、雨が降らないように皆祈りながら練り歩くそうだ。
その後、御神輿は白山比咩神社の本殿に戻り、午後2時から神事が行われる。こうして2日間にわたる大祭は無事終了し、役員さんや地区の人達に安堵の声がもれる。

こうして白山比咩神社大祭、特に獅子舞のような古典芸能が、長い歳月に渡り受け継がれてきたことは意義深いものである。現在では少子化の影響で、これを引き継いでいく若衆が減る中、青年団や区民が力を合わせて守っていく姿に胸が熱くなる。

INFORMATION

名称
白山比咩神社
場所
岐阜県恵那市 山岡町下手向1065
お問合せ先
0573-56-2111(山岡振興事務所内 恵那市観光協会 山岡支部)

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