STORY 恵南地方にまつわる50の物語

串原村 弘法さんのお堂と裏の石仏

石仏に見守られた祈りの山里

十一面観音像と石仏群

子供の頃、道の所々に花が供えられた石仏があった。
夕暮れ時、心細くなり早足で家に帰る途中、野の仏にほっと安心したものだ。
串原の人々の願いや祈りが込められた石仏は、色あせることなく、今もこの里山を見守り続けている。

石仏は心の支え

串原は三河との境にあり、しかも信州にも近い。つまり、東と南の文化が矢作川や中馬街道を通じて流れ込んだため、石仏が非常に多い。そのおびただしい数に驚かされる。
確認された石造物や神仏、それに付随したものを含めると、850体にもなる。
串原の人々にとって、石仏はどんな存在だったのだろうか。
矢作ダム建設によって、脚光を浴びた串原。村落は、矢作川上流の谷あいに沿った「川通り」筋と、高原状の山地一帯の「根側」筋に分布している。
川と共に生きてきた人々と、山と共に生きてきた人々と、同じ串原だが環境に違いがあるのだ。特に山と共に生きてきた人々は、厳しい環境の中、山仕事や農作業を生業として、生活の中で多くの苦難があった。そのため、神仏や野の仏としての石仏を心の支えにしてきたといわれている。
造立数が多いのは、串原の生活の中に、現代では考えられない多くの苦難があったからではないだろうか。

串原で最も古いものは、室町時代に造立されたと思われる、五輪塔・宝篋印塔である。造立が盛んであった時期は、江戸時代後半で江戸初期の造立は少ない。造立されたもので最も多いのは馬頭観音で、約3割を占めている。江戸時代の道路事情や馬の飼育が盛んだったことから当然のことだろう。

十一面観音の胎内仏

串原地区の中でも、石仏の数が多い木根地区では、毎年4月に弘法さんのお堂でお日待ちが行われる。その木根公会堂には、本尊の観音像が安置されており、地区の人々が食事をしながら観音像を祀る。
全長465mmの観音像は、1本のカヤの白木で彫られており、穏やかな笑みを浮かべ、全体的にやわらかい印象だ。地元の方の伝えによると、明治維新の廃物棄釈(神仏分離)が行われた際、中山神社から全長2,210mmの木彫十一面観音立像が柿畑地区に移された。文化財に指定されている、威厳のある像だ。日輪の光背をもち、奥矢作三山の一木三体仏の一体といわれている。その観音像の胎内から、カヤの白木で彫られた像が発見されたそうだ。その後、胎内仏は隣の区であった木根地区に移され、現在に至る。

十一面観音とは、頭の上に11の顔があり、苦しんでいる人をすぐみつけるため全方向を見守っている。奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになった。穏やかな表情の美しい観音菩薩像に見入っていると、護られているような安心感に包まれるから不思議だ。

石仏探訪

木根公会堂には、様々な形をした石仏群がある。見晴らしのよい高台に建立されており、夕日に照らされた石仏群は、まるで集落を見守っているようにも見える。
串原の石仏群には様々なものがあり、大日如来、阿弥陀如来、観世音菩薩などが祀られている。木根地区の南の山頂に、浮彫り座像の胎蔵界大日如来と文字碑の二体があり、この大日如来に願懸けをすると、願いが叶うとされ多くの信者を得た。遠く小原村からも参詣人があり、大変にぎわったそうだ。

更に、松本区、柿畑区、木根区の石造三十三観音は圧巻だ。三十三観音とは、観世音菩薩が三十三の姿に応化して、あらゆる人々を救う身近な仏様として信仰されている。この石造三十三観音は、西国三十三霊場へ巡拝に行けない人のために、この地に写して祀ったものだといわれている。
その他、地蔵菩薩、念仏供養塔、月待塔、庚申塔、道祖神など多岐にわたる。型式も、丸彫り、浮彫り舟形光背、駒型、板碑型、自然石、三伏角柱、笠塔婆、各種頭柱型と大変豊富だ。これ程多くの石仏を、一体誰が彫ったのだろうか?
こうした石仏にノミを入れた石工は、串原の人々であったのか、三河から入ってきたのか、信州高遠の石工か・・・その作者はほとんど不明である。

串原の大自然と調和して、数百年生きぬいた石仏たち。先人の遺したこの文化財は、恵南地域にとって誇りである。

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