神童と呼ばれた幼少期
明治から昭和に活躍した教育家であり歌人。日本の女子教育の先駆者であり、実践女子大学(東京都)の創始者でもある。
岩村町が生誕の地であり、生誕地には立派な顕彰碑が建てられている。そして、岩村城址の麓の武家屋敷だった場所には、歌子が勉学に励んだ場所といわれる「下田歌子勉学所」が、静かに佇んでいる。ここは歌子が幼少期、父の書斎で、父と祖父の蔵書を読み、独学で和漢字を学んだ部屋が復元されている。
勉学所には、「下田歌子女史像」が建てられ、歌子の面影を偲ぶことができる。
生涯を女子教育の振興にささげた下田歌子とは、どんな女性だったのだろうか。
安政元年(1854)美濃国岩村(現在の岐阜県恵那市)の岩村藩士の家に長女として歌子は生まれた。幼名は、平尾銘(せき)。平尾家は、代々漢学者の家系で、祖父・東条琴台は多数の著述がある儒学者、父・じゅう蔵も藩校『知新館』の教授をしたことがあった。
時代は幕末、明治維新の6年程前で、世の中が大きく変わり始めた頃だ。父・じゅう蔵は尊王論を説いたため謹慎処分を命じられ、一家の暮らしは非常に貧しいものだった。
苦難の中、銘は5歳で俳句や和歌を詠み、7~8歳にして見事な韻を踏んだ漢詩を作り、「神童」と呼ばれていた。しかし女であるため、すぐ近くにある『知新館』で学ぶことは許されなかった。そのため、家庭においては祖母・貞から読み書きの手ほどきを受け、祖父と父の蔵書を読みあさった。独学で修めた和漢字は『知新館』の教授も驚嘆する程だったといわれている。
書物を読んで善いことだと思うと、すぐに行動にうつすことも多かった。「二十四考」という親孝行を書いた書籍に、両親が蚊に刺されるのを防ぐため、自分が裸になって蚊を引き寄せたという内容があり、なんと!銘は実際にやってみせた。家族を思う優しさと行動は、後の銘の人生を彷彿とさせる逸話だ。