岩村が生んだ学者であり教育者「佐藤一斎」
一斎は安永元年(1772年)、美濃岩村藩家老・佐藤信由の次男として江戸藩邸に生まれた。通称は捨蔵と呼ばれ、若い頃大阪に遊学して懐徳堂の中井竹山に学問を学んでいる。22歳の時に林家へ入門し、その後、34歳で塾長となり師の林述斎と共に門弟の指導に当たった。更に天保12年(1841年)師である述斎が没すると、71歳となった一斎は儒学の大成功者として幕府から公認されていたこともあり、昌平坂学問所の儒官(総長)になり門下生3000人を育てたといわれている。
主な門人に佐久間象山(松代藩)、山田方谷(備中松山藩)、渡辺華山(田原藩)などがいるが、象山の弟子には、のちの明治維新を導いた勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰などがいた。
西郷隆盛が島流しにあった獄中で座右の書とした「言志四録」は、一斎がおよそ40年の歳月をかけて著したものだ。「言志録」・「言志後録」・「言志晩録」・「言志耊録」の4巻の書物で、そこには学ぶこと、生きることの意味と大切さなどが記述されている。
西郷隆盛は全1133か条の中から101か条を選び「手抄言志録」にまとめ、その後、西郷を最も信頼していた明治天皇に献上され、「朕は再び朕の西郷を得たぞ!」と叫んだと伝えられている。