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STORY 恵南地方にまつわる50の物語

串原村 串原歌舞伎

心情豊かな熱演に感動がこみ上げる

次世代へ受け継ぐ伝統芸能

奥深い山々の懐に抱かれ、まるで家族のように心と心を通い合わせながら暮らしてきた串原の人々。
そんな山村ならではの生活は、数々の文化を生み出してきた。
時代が変わっても、その温かみのある文化は、今も変わらずこの串原で息づいている。

岐阜は地歌舞伎日本一

愛知県との境に接する山間の地、串原でも江戸時代から地歌舞伎は演じられていた。民俗文化財に指定されており、地域の芝居への情熱は、ますます高まっている。
毎年11月には、「くしはらふるさと祭」が開催され、文化展・産業展と共に、歌舞伎の公演も行われ、多くの人でにぎわう。

地歌舞伎とは、アマチュアの人々が行う歌舞伎のことを指す。演じるだけでなく舞台作りから何から何まで地元の人達が中心になり作り上げる芝居だ。
江戸や大阪から公演に来るプロの役者(旅役者)に憧れた地方の人々は、旅役者に芝居を習い、やがて自分たちで神社の祭礼時などで演じ、楽しむようになったといわれている。
昨今では、子ども歌舞伎が全国各地で盛んに行われるようになり、今まで地芝居が無かった地域でも有志で団体を作り歌舞伎を始める所も出てきた。

全国に約200ある地歌舞伎(地芝居、農村歌舞伎、素人歌舞伎)の保存会のうち、岐阜県には全国最多の30団体があり、昔ながらの芝居を継承している。
串原の地歌舞伎も、その中の一つであるが、岐阜県の保存団体と芝居小屋のマップを見ると、岐阜県南東部に集中していることがわかる。
なぜ、東濃地方で地歌舞伎が盛んになったのだろうか?江戸時代、東濃地方(岐阜県南東部)は街道の交差点で、人や物が盛んに往来する場所だった。そのため、都市の芸能文化が取り入れやすい環境だった。更に、当時の東濃地方は尾張藩の領地で、東濃の木材が尾張藩の収入源であった。そして、軍事的にも中山道は大変重要な街道であったため、民衆の不満のはけ口として芝居の公演は黙認されていたそうだ。

人々の大切な娯楽

しかしながら、串原の地歌舞伎は、不満のはけ口とは真逆で、素朴であたたかい気持ちになる。江戸時代中期より、村人たちは力を合わせて、各地区ごとに芝居小屋を建て、一日の仕事を終えるや、酒を酌み交わしながら夜遅くまで練習に励んだそうだ。農閑期には一座を組んで、近郊の村々へ旅回りに出かけるほどの盛況ぶりであった。
テレビもラジオも無かった時代、歌舞伎は観る者にとっても、演じる者にとっても随一の娯楽であっただろう。
村では昭和47年以前までは、各地域の愛好者により演じられていたが、昭和48年には、串原村歌舞伎保存会が設立され、毎年文化祭の日に上演されている。そして、昭和56年からは、歴史ある郷土芸能を次世代へ伝承させるため、子ども歌舞伎にも取り組んでいる。

奥三河に近い地域だけに、過去には地元の振付師や古老の指導による「三河芝居」の流れをくむ芝居も上演されていたようである。保存会結成後は、松本団升師を経て、現在は松本団女師の振付による。
芸の特色は、地芝居でよく上演されている「時代物」を中心に、中央では上演されなくなった珍しい芸題などにも取り組んでいる。

熱演に思わず涙

「くしはらふるさと祭」では、串原小学校5、6年生が毎年ふるさと学習の一環として歌舞伎を演じる。華やかな舞台セットを背景に、堂々と舞い踊る役者の姿に、観客からはたくさんのおひねりや拍手が飛び交う。演目は、5、6年生の人数を考慮しながら決められる。串原歌舞伎保存会も、日々の練習の成果を2幕上演する。
 地歌舞伎の見どころの一つに、多彩な色柄の着物やかつらなどの衣装、独創的な化粧、木と紙と布で工夫を凝らした舞台美術がある。日本の文化が凝縮されたすばらしい舞台だ。

文化祭、産業祭も同時に行われ、屋外では地元農産物の展示・即売や、新鮮な野菜などを求める人達で、長蛇の列ができている。バザーコーナーでは、地元産のシシ鍋が無料で振る舞われ、来場者の体を温めていた。地元自慢の料理も多く出店され、地歌舞伎を観賞した後は、親睦を深めながら舌鼓をうった。
地域の人々が心をひとつにして、文化を受け継ぎその成果を表現し、たくさんの人達とその感動を分かち合う、伝統芸能「地歌舞伎」は、恵南地域にとって大切な宝だ。

INFORMATION

名称
串原歌舞伎
場所
岐阜県恵那市 串原3150(サンホールくしはら)
お問合せ先
0573-52-2443(堀新三 方)

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