STORY 恵南地方にまつわる50の物語

岩村町 佐藤一斎

幕末の志士の魂を奮わせた 珠玉の書

岩村藩出「佐藤一斎」の言志四録

佐藤一斎(さとういっさい)が、幕末の激動の時代の中にありながら綴り続けた「言志四録」。
そのメッセージは穏やかなうねりとなり現代に生きる私たちの心奥に届く。

岩村が生んだ学者であり教育者「佐藤一斎」

「この人物がいなかったら、日本の夜明けは無かったかもしれない。」と言われる江戸時代後期の学者であり教育者、佐藤一斎。その著「言志四録」は西郷隆盛をはじめ、幕末の志士に大きな影響を与えたことで知られている。

一斎は安永元年(1772年)、美濃岩村藩家老・佐藤信由の次男として江戸藩邸に生まれた。通称は捨蔵と呼ばれ、若い頃大阪に遊学して懐徳堂の中井竹山に学問を学んでいる。22歳の時に林家へ入門し、その後、34歳で塾長となり師の林述斎と共に門弟の指導に当たった。更に天保12年(1841年)師である述斎が没すると、71歳となった一斎は儒学の大成功者として幕府から公認されていたこともあり、昌平坂学問所の儒官(総長)になり門下生3000人を育てたといわれている。
主な門人に佐久間象山(松代藩)、山田方谷(備中松山藩)、渡辺華山(田原藩)などがいるが、象山の弟子には、のちの明治維新を導いた勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰などがいた。

西郷隆盛が島流しにあった獄中で座右の書とした「言志四録」は、一斎がおよそ40年の歳月をかけて著したものだ。「言志録」・「言志後録」・「言志晩録」・「言志耊録」の4巻の書物で、そこには学ぶこと、生きることの意味と大切さなどが記述されている。
西郷隆盛は全1133か条の中から101か条を選び「手抄言志録」にまとめ、その後、西郷を最も信頼していた明治天皇に献上され、「朕は再び朕の西郷を得たぞ!」と叫んだと伝えられている。

歴史ある町並みで碑文めぐり

岩村城下町には、一斎が残した名言が書かれた200枚もの木板が家々の軒下に掲げられている。
古い町並みを散策すると「言志四録」が刻まれた碑文に数多く出会うことができる。名言を石に刻んだ碑文は15ヶ所(天瀑山にも詩碑があるため16ヶ所)。「佐藤一斎 言志四録 碑文めぐり」のマップを片手に一斎の心に触れる名言に触れてみよう。

岩村城跡の麓の岩村藩藩主邸跡地に歴史資料館がある。資料館では、は岩村城、岩村藩、岩村城下町に関する資料が、展示・保管されており、その中に佐藤一斎自賛画像軸があり岐阜県重要文化財に指定されている。
資料館の近くには佐藤一斎の言葉を記した碑文がある。佐藤一斎 言志四録 碑文めぐり)マップの1ヶ所目として掲載されている碑文が姿を現した。

「少くして学べば、則ち壮にして為す有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」言志晩録60条

この名言はどこかで聞いたことがある人も多いだろう。
その意味は、「子供の時に学んでおけば、壮年になってそれが役立ち、充実した日々を送ることができる。壮年の時に学んでおけば、老年になっても気力が衰えない。老年になっても学んでいれば、死んでもその名や精神は朽ちることはない。」であり、一生学ぶことの大切さを説いている。

マップに記してある意味を味わいながら、自分の経験に照らし合わせて納得し思わずうなずく。そして、時間がゆったりと流れる風情ある町並みを歩きながら、2ヶ所目、3ヶ所目と読み進めて行き10ヶ所目にたどり着いた。

「太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。」言志録2条

「最も優れた人は宇宙の真理を師とし、次に優れた人は立派な人を師とし、第三等の人は書物を師とする」という意味だ。

一斎の言葉やフレーズは決して過激ではないが、後からじんわりと心に染みわたり納得してしまう。

世代を超えて受け継ぐ書

一斎が「言志四録」を綴ったのは、42歳頃から80歳を過ぎるまでの40年間。その間の世の中は江戸後期の変革期の渦中であった。そんな中にあっても一斎はその後の日本の行く末を見据え、じっと「言志四録」を綴り続けたのだ。

佐藤一斎の言葉を理解するには様々な経験をし、ある程度歳を重ねないと無理なのか?
いや・・・そうではない。

なぜなら幕末の志士たちが「言志四録」を読んで発奮したのは20代後半から30代にかけてのことだった。今この時代だからこそ、若者にも一斎の言葉は響くに違いない。

城下町では今も一斎の言葉が息づき、全国へと伝播している。

INFORMATION

名称
いわむら一斎塾事務局
場所
岐阜県恵那市 岩村町317番地
お問合せ先
090-8135-2421

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