有形遺産
【築城・存続】
応永6 年(1399 年)
【標高】
730m( 比高 160m)
【主な城主】
田代五郎(遠山氏一族)
田代山の東600mの所にある大変形の良い山に築かれた小規模な山塞である。山頂部に平坦な円頂の部分が認められるが土塁、堀切等は見当たらない。標高730mの山頂からは真下を通る土岐地区からの街道が一望のもとに見渡せる。そのためこの山に物見砦が築かれたといわれている。
昔よりこの田代の地は土岐地区に通じる土岐街道の入り口に当たり、土岐氏への備えのために明智遠山氏遠山和泉守景基が応永の乱が起こった応永六年(1399 年)に築いたと伝わる。一族の田代五郎、弾正がこの地を支配し守ったと伝えられ応仁の乱(1467 年)が始まり明知遠山氏と土岐氏の戦が起こり、土岐氏は高町城を迂回し下手向の土岐坂から攻め登ったため落城してしまった。これ以後再興することはなく廃城となった。この落城時の伝説が今に残っている。
城中の姫様が落城を悲しみ下手向新田の居守ヶ池に身を投げ命を絶ったと、また土岐勢がこの池で血刀を洗ったためこの池のイモリは更に腹が赤くなった、故に居守ヶ池と名付けたと伝わっている。城の麓の留守ヶ洞集落の最上部に今でも高町という地名が残っており、往時を偲んでいる。