有形遺産
【築城・存続】
鎌倉末期か室町初期
【標高】
660m ( 比高 170m)
【主な城主】
原光広、久賴(土岐氏一族)
鶴岡山系の西方に位置し眼下に原地区が一望出来る標高660mの山頂上に城跡が残っている。山頂部は90mx40mほどの円頂で平坦地となっている。切り岸、土塁等の遺構は見当たらない。
日本城郭大系に恵那の原城は土岐氏の一族原紀伊守光広、隠岐守久賴の居城であると記述がある。鎌倉末期か室町初期に城は築かれ原氏が居城としていたが、南北朝時代以後にここに居たという証がなく、原氏は南朝方のために勢力を失い原の地から離れていったと伝えられている。現在東原薬師寺に残る五輪塔、宝篋印塔の中に原氏のものも含まれていると伝わっている。
現在の原地区には殆ど城に関する伝承が残っていないが、麓の西原地区に、城の落武者が討たれた場所に生える茅が二股に分かれる、二股茅の伝説が今も語り継がれている。