STORY 恵南地方にまつわる50の物語

上矢作町 熊野神社春の祭礼

ワッショイ!!熱い思いがぶつかり合う

受け継がれる伝統のお祭り

普段はひっそりと佇む熊野神社だが、春の祭礼の時はその雰囲気が一変する。
太鼓の音が響き渡り、神輿を担ぐ声が山々にこだまする。
地域の人々の絆を深め、神を敬う心を育てるお祭りは、いつの時代も変わらない。
その場所は「おかえり」と、あたたかく私たちを迎えてくれる。

迫力のけんか神輿

上矢作町の市街地から、8キロ程南の丘陵地帯に熊野神社は鎮座している。鳥居の左右に社標があり、左には銀弊社と三文字が冠される立派な神社だ。
境内はきれいに手入れされ、神社の裏から見える田園風景が美しい。

熊野神社では、毎年4月の第3土曜日と日曜日に、昔から伝わるお祭り「春の祭礼」が行われている。どのくらい前から行われているのか、なぜ始まったのかその由来は定かではないが、今も下区、小田子区の地元の人達が伝統を受け継いでいる。
熊野神社の大祭といえば、迫力満点の「けんか神輿」が有名だ。大祭では、土曜日の前夜祭がことさら盛り上がるそうだ。昼間は神輿や山車を曳きながら、太鼓の音とともに各地区を練り歩き、夜8時頃になると熊野神社の下に地区ごとの神輿が集結する。
そして始まるのが、「けんか神輿」。神輿どうしがもみ合い、ぶつかり合う様子に圧倒される。昔はもっと激しかったそうだが、時代の変化と共に、少しずつその激しさも和らいでいった。
もみ合いが終わると、階段を上がり宮入りだ。どちらの区の神輿が先に宮入りするのかは、毎年交代で決められている。宮入りの後は、仲良く一緒に太鼓を叩く姿が面白い。
けんか神輿の由来は不明だが、一年に一度、情熱を思いっきりぶつけてすっきりする。娯楽の少ない昔の村人にとって大切な行事だったのかもしれない。

伝統文化の巫女舞

大祭1日目となる「宵祭り」は、前日からの準備で、氏子住民が総出で大忙しだ。お守り物(団子餅)や縄の用意。太鼓は2週間かけて練習し、前日は本番に向けて練習にも熱がこもる。当日は朝から始まり、夜のけんか神輿、神事が終了するのは夜10時頃だ。

そして大祭2日目の本祭は、正午12時に集まりお宮に向かう。そこで太鼓を叩き、神事である「巫女舞」が始まるのだ。
昔は地区の子供が多かったので、巫女舞は子供が担当していた。しかし、年々子供が少なくなり現在は足りないため、上矢作全体から8人が集められ舞うことができている。母から娘へ、そのまた娘へと引き継がれ、大切に継承されているのだ。
巫女舞は日本の優れた伝統文化のひとつである。神様に奉納する舞であり、舞人全員の動きが合うことが大切になる。それには、どれほどたくさん練習をしなければいけないのだろうか。休日や放課後の時間を使い、一生懸命練習して本番で見事な舞を披露する。
地域の子供たちにとって、巫女舞に参加することは、精神的にも大きく成長する大事な機会なのかもしれない。

こうして全ての神事が無事終わり、片付け作業も終えると直会(なおらい)を兼ねた慰労会が開催される。直会とは、神事の最後にお供えしたものをおろし、参加者で頂くという行事のことである。神霊への供物を飲食することで、神霊との結びつきを強くし、その力を分けてもらうことで、加護してもらうという意味がある。更に直会の語源、「直り合い」ともいわれ、祭事を終えて日常に「直る」という意味も込められている。
氏子住民が、この祭りを通じてお互いの健康を祈り、心のふれあいの場としてこの祭礼を盛り上げている。慰労会でお互いを労う姿が印象的だ。

消えた仮装行列

上矢作町は森林資源が豊かで、材木の産業で町全体が活気にあふれ、人口も多かった。熊野神社の大祭も大勢の人でにぎわい、昭和30年代には、仮装行列まで行っていたそうだ。お雛様の衣装に身を包んだ地元の女性たちが、トラックのひな壇に並び、ひな飾りの仮装をしたり、丁稚奉公やその時代の流行りの人物などに仮装して地区を回った。まるで現代のハロウィン仮装行列のようだ。
当時小学生だった氏子の方が、懐かしそうに思い出を語って下さった。
時は過ぎ、住民の高齢化の波が押し寄せ、子供も少なくなり、仮装行列もいつの間にか消えていった。大切に受け継がれてきたお祭りを、今後も開催していくために、一緒にお祭りを盛り上げてくれる人を募集しているそうだ。多人数で曳く山車や、太鼓を叩く人、祭りの見学のみでも大歓迎!
地元の人も、そうでない人も、楽しくて懐かしいローカルなお祭りをぜひ体験していただきたい。大切な伝統を守っていくために・・・

INFORMATION

名称
熊野神社
場所
岐阜県恵那市 上矢作町下
お問合せ先
0573-47-2111(上矢作振興所内 恵那市観光協会 上矢作支部)

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